スピリチュアル&アセンション通信

スピリチュアルとアセンションに関するライトワーカの活動報告

大掾氏(だいじょうし)の戦死者900名の浄霊

現在、茨城県石岡市染谷にある常陸風土記の丘に1577年に戦で亡くなった700名および過去の戦で亡くなった霊体合計900名がココに集結していると言う。この場所は、大掾氏(だいじょうし)の拠点で、城があったと言うが過去の文献を調べても何城かは判明しませんでした。戦国時代は、周辺勢力と力が均衡していたようで、多くの戦が行われた戦場とのことである。Wikipediaによると下記のように明記してあるが、1577年のことには触れてはいない。何れにせよ繰り返し行った戦場のようで、ここに静まる大掾氏関係者の霊魂900名の浄霊を遠隔で始めた。現在多くの神々の協力もあり、2日目で280名の浄霊を完了しました。最終日は現地で浄霊を行う予定でおります。

戦国時代<wikipedia>
大掾氏は江戸氏、佐竹氏に押され、これにともない惣領家の求心力が衰えていく。後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとり、時には和睦の仲介をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。清幹は府中城の詰め城をほとんど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。通説ではこれをきっかけに後北条氏と結んだとされているが、中根正人は佐竹氏が大掾氏を攻めたのは佐竹氏の内部事情によるものとし(伊達政宗の南下を前に江戸氏の離反を防ぐ目的があった)、清幹の降伏後は佐竹・大掾両家の関係は正常化して、佐竹氏にとっての大掾氏との関係は宇都宮氏や那須氏と同様の関係にあったとしている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が発生する。清幹をはじめとする大掾氏一族は参陣をしなかった。結果、参陣をした佐竹義重常陸国が与えられた。義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。これにより大掾本宗家は滅亡した。次いで翌天正19年(1591年)2月、義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招いた後に皆殺しにした。そして鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族のほとんどは滅亡した。

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戦場位置

 

追申:5月18日:

15日から行っておりましたこちらの対応は下記スケジュールで完了しました。

15日夜 遠隔で土地と霊の浄化:協力、瀬織津姫
および 遠隔で100名の浄霊:協力、大年神、座摩神、オネイロス様
16日夜  遠隔で180名の浄霊:協力、大年神、座摩神、オネイロス様
17日夜  遠隔で300名の浄霊:協力、大年神、座摩神、オネイロス様、大精霊陽露様、龍神 八雲神
18日朝 現地にて 170名の浄霊:協力、大年神、座摩神、オネイロス様、大精霊陽露様、龍神 八雲神
および 100名の動物霊の浄霊:協力、精霊、幻獣、龍神、大精霊一同

計750名の人の霊魂と100体の動物の霊魂を宇宙で、待っている魂の元へ戻することが出来ました。協力頂きました神々に感謝いたします。